昭和46年04月01日 朝の御理解



 御神訓 一、「人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身もみな人。」
     一、「天が下に他人ということはなきものぞ。」

 「人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身もみな人」皆さんはどう思われますか。人の身が大事と思うですか。わが身が大事と思うですか。やっぱり、わが身が大事ですよね。誰しもそうであろうと思う。やはり一番大事なのはわが身である。けれども、「人もわが身もみな人」とこう。「人もわが身もみな人」であるために、やはり人も大事にしなければならない。
 しかも「天が下に他人ということはなきものぞ」と仰るんですから、そこに例えば、赤の他人といったような考え方ではなくて、みんな血が繋がりあった親戚同士。みんな方兄弟同士。同じ同胞(はらから)である。同じ親から生を受けた兄弟同士である。そういう頂き方をさせて頂くところからです。勿論、人の身も、自分の方が大事。人の身が大事か、わが身が大事かとこう言っておられる。そりゃわが身が大事です。
 だから、わが身が大事といっておるけでは、いわば、信心にならんのでございます。ただ、わが身可愛いというだけでは信心にならない。そこで信心させて頂くものはです、勿論、自分の身が大事なのだけれども、人も又大事であるという、いわゆる、兄弟、天が下に他人ということはなきと。同じ親を持つ同胞(はらから)であるという頂き方。信心させて頂く者はね、そういう頂き方をしなければ、いや頂き方というよりも、本当はそれが、本当なのである。それが事実なのである。
 いわゆる神の氏子と、世界中の人間の事を、神の氏子、いわゆる総氏子と、と親神様が仰るのですから。わが身から見れば、みんな同じ一視同仁である。皆が、天地の親神様の御子である。してみると、やはり兄弟である。例えば、例え兄弟であってもです、やはり、煎じ詰めて見ると、わが身が大事であるという事です。だからというて、わが身だけを大事にしておって、良かろうはずはないというのが信心である。人も又人である。人もわが身もみな人である。
 そこで、ここで教えておられる「人の身が大事か、わが身が大事か」という事はですね、勿論そこに、わが身が大事であると言うことは、こら、誰でも同じことであろうとこう思います。けれども、それではね、信心にならない。わが身同様とは、例えばいかにしてもです、人の身も大事であるという頂き方。わが身を大事にするという事。ここでは、わが身が大事と思うんですけれども、そのわが身が大事という事をです、信心でいう、わが身が大事ということはどういう事を言うのであろうかと。
 しかもわが身を大事にする事は、そのまま、人をも大事にすることになるといったような、いわゆる、大事に仕方があるだろうとこう思います。ただ、わが身可愛いという、自分の身だけを可愛いと。自分の身だけを愛しがるというのではなくてね、自分の身を大事にするという事は、そのまま、人の身も大事にすることになるという、大事な頂き方。大事の仕方というのがあるとこう思う。
 教祖様は、このように、例えば教えておられますから、ここのところを私共がです、ただ、すーっとこう読み下すだけではなく、ただ聞き逃すだけではなくてです、ただ聞くだけではなくてです、「人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身もみな人」と、やはり御神訓。そういう風に神訓、教えておられる。それには、ほんなら、自分も大事だけれども、人も大事である。大事にしていかなければならない。
 ほんなら自分を大事にするという事がです。人にまでも大事にする事に繋がるんだとと言う様な、大事に自分というものを扱う扱い方はないものかと。人だけを大事にしよると自分自身がお粗末になる。というて自分だけを大事にしよると人が疎かになる。そういうのではないと言う事を教えておられますよね。親鸞上人様の教えですかね。お言葉の中によき人の仰せを蒙りて信ずるほかに別に子細なきなりと言うておられます。
 まぁこれは私が想像するわけですけれども、まぁ親鸞上人様にね、あなたはどうしてそのような、立派なご信心を頂かれる事が出来たのですかと。どうしてそのようなおかげを受けれる事になられたのですか。と、まぁ問われた時に、親鸞は、まぁこう答えたであろうと言うのです。私はそういう風に思うんです。例えば、ほんなら親鸞と、私とを置き換えてみても良いです。
 ある人が大坪さんあなたは、どうしてこういうおかげを受けられたですか。と人が問うたら私もそう言うだろうと思うです。よき人の仰せを蒙りてそれを信ずる他に別に子細はないのですよと。よき人とはここでは親鸞上人様の場合は、師匠法然の事であるろうと思うのです自分が分からない。解らないけれどもです、師匠法然が言われる事であるから、それをその仰せを頂き蒙って、しかもそれを信ずる他にないとこう言う。
 私が信じておる師匠法然の言葉をです、私自身、それを信じて頂く他に、いわゆる別に子細はなきなり、とこう言う。他に子細はありません。他にいわばおかげを頂くこつあいはありません。もうここに極まっておりますと。まぁ親鸞はそういう風に答えられたのであろうとこう思います。だからそれを私に置きかえると、私自身がそれが言える。もし皆さんが問うならば。親先生どうしてあなたはそういう風に、おかげを受けられたですかと。この様なおかげを受けていかれるのですかと。
 他に子細はありません。教祖生神金光大神の仰せをそのまま頂いて、しかもそれを信ずる他に子細はありません。これ以外にこつあいはありませんということに、私もそう答えるであろうと思います。そこでほんなら私と皆さんのことになってまいります。ここでは神様任せという事を、いうなら親先生任せという風に、皆さんが申されます。親先生任せになっとけばという、それがただ自分の都合、自分のことだけでの親先生任せではなくて、全てのことが親先生任せ。
 言うならば、親先生の仰せられることを、そのまま信じて蒙る事である。親先生が言われる事をそのまま、信じて頂くことである。別に子細はないと、皆さんが例えば人に問われた時に、それをそう言えれる私と皆さん、皆さんと、いうなら、人とここでは言われる。人にそれを伝えることが出来るという事。私はこんなに素晴らしい、自分をも大事にし、人も大事にする生き方はないと思う。どうでしょうか。
 事実私自身がおかげを受けておる。そのおかげを受けておる私を、皆さんが目の当たりにご覧になるのである。目の当たりで聞いて下さるのである。私は斯くおかげを頂いた。斯くおかげを頂いたのは、私の力でもなんでもない、師匠いうならば、生神金光大神が教えられた事をです信じて蒙る。よき人の仰せを蒙りて信ずる他にはない。教祖金光大神が嘘を仰とるとは思えない。これ私が何時も使う言葉ですね。教典をいわば紐解かせて頂いて、どの一ヶ条だって、教祖様が駆け引きに仰っておられるとか。
 これは本当じゃないけれども、まぁ教えるといったようなものではなくてです。教祖様が嘘を仰るはずはないと、まず信ずることなのです。私はそう信ずる。仰せを蒙る他にはない、しかもそれを信ずる他に、別に子細はないのだ。他に秘訣もなんもあったのじゃありません。それを信じて行じていく他にはないのです、と私が言えれるようにです。皆さんとてもやはりそれをです、信じて蒙り信じて言えれる。
 他に子細は秘訣はありませんと、いえれる皆さんであらなければならない。そこに皆さんの助かりがある。その皆さんが助かる、それがいうならばここで、今日申しますなら、いよいよわが身は大事にする事に繋がるのです。わが身を大事にする事に繋がる。しかもそれをです、皆さんが、あなたはどうして、何時もそんなににこにこしておられますか。あなたの家だけは、どうしてそんなに繁盛致しますか。
 あなたの所はどうして家庭がその様に円満ですかと問われた時にです。もうとにかく親先生の言われる事をです、そのまま信じて蒙って行く以外にありません。他に秘訣はありませんと言えれる皆さんになる事だと私は思うです。親鸞様のこの仰る言葉はもう、本当に素晴らしい言葉だと思いますですね。師匠法然の言われたことをです、もう信ずる他にはないのだと、それを頂く他にはないのだと他に子細はないと。
 私はここにね、純粋な信仰の生粋と言った様なものを感じます。そこでです誰でもやはり、自分の身ほど大事なものはない。というて自分をただ愛しがるという事ではなくて、自分自身を、そりゃなるほど愛しがっても良い。自分自身の心を大事に大事にする事なのですから、自分を大事にするという事は。けれどもその自分を大事にするということがです、人をも大事にすることに繋がらなければならないという、まぁ一つの具体的な事を申しますならです。自分自身を愛しむということ。
 自分自身を大事にするというところにはです、腹立ちというものがなくなりましょう。腹を立てるという事は、自分を苦しめることですからね。自分をいじめる事なんですからね。腹立てば、心の鏡が曇る事なのですからね。それは自分をいじめておる事です。自分をいよいよ大事にする、信心で言うと。今日今日の心のところで、自分を大事にするという事は、腹の立たん私にならせて頂くということなんです。
 一つの例ですよ。教祖様は、「腹立てば心の鏡が曇ること」と仰るから。腹を立てんですむ私にならせて頂こうと、一生懸命に精進努力をするという事はです。私自身を愛しむことであり、大事にする事なのだ。そしたら、第一、誰が助かるかというと。勿論、私自身が助かるが、その家で、ほんなら助かるのは誰かというと、私の家内であり、私の子供であり、私の親であり、私に接する全ての人達である。
 例えば、腹を立てない、立ててはならないと、自分を大事にするという事は、そのように人をも大事にする事になるのですよ。だから今日は一つ、この一言に絞ってです、「人の身が大事かわが身が大事か、人もわが身もみな人」。みんな人間なのだから。しかも「天が下に他人ということはなき」と、仰せられるのであるから。教祖金光大神は、そのように教えられるのであるから。
 なるほど教えを頂けば頂くほど、天地の親神様からご覧になれば、皆、愛しい神の氏子である。してみると、私共は、同胞(はらから)である。同胞である。兄弟である。そういう頂き方。なるほど世界中のこと。世界の総氏子のことを願わせてもらわなければおられないことにもなって来るけれども。まず私に接する人達。まず私に関わりあいが出来る事の、全ての人達がです、関わりを持つ全ての人がです。
 助かっていくという生き方。それを例えば、ほんなら今日、ここまでお話してまいりまして、いわゆる腹立ちということに絞ってきたわけですね。自分を大事にするとか。人の身が大事か、わが身が大事かとこう言われりゃです、もうそれは親よりも、子よりも、真実、自分自身が一番大事である。ところがそれだけでは信心にならないのであるから。自分自身を大事にするという事が、又人をも大事にすることに繋がっておるような、大事にする仕方でなからなければならない。
 そこで私が、腹を立てないという修行。いや腹を立てては、神様に対しても相済まん。いや腹を立てる事は自分をいじめることである。自分を、酷な場に置くわけである。それでは自分が辛い。そこで、自分を愛しいと思うなら、愛しいと思うほどにです、腹立ち苦をするといったような事がないことに精進する。教えを頂いて、分かれば分かるほど、腹を立てるといったようなことのあろうはずがない。
 全てが有り難いとお礼を申しあげる事ばかりなのである。それを例えば、普通では、虫のおりどころが悪かったから、かーっときたとか。虫のおりどころが悪かったから、腹が立ったとかという訳になる。それでは自分をいじめることだけではなくて、人をもお粗末にすることになる。まず自分の一番そばにおるところの、家内や、子供が親達が、難儀をする時である。
 そうやって腹かいとるなら、まぁ本当に逃げ出そうごたるでしょうが。それこそ腹立ちの連鎖反応が起こってから、次々と何のため、あげん腹けぇとらにゃんじゃろうかと。言うちから、そげん言いよる方まで腹かいとる。べぇとしてから何のためにあげん、むっとした顔しとかにゃんじゃろうかち。ち言うちから、自分もぶっとしとる。連鎖反応です。自分をいじめる事はそのようにして、人をもいじめる事になるわけです。
 所が何時にでも何時会うても、にこやかにしておられる。くうっとしたり腹ん立ったりしておったっちゃです、その人の顔ば見よるとこちらまでがにこやかになる。先日椛目の中島さんがこんなお話を、共励会の時にしておられます。今あちらはカゴメケチャップですね。カゴメという、椛目のカゴメに勤めておられます。そこに勤めておられる同じいわば女工さん仲間の人がです、中島さんにこういう事を言われる。
 椛目からあの草野の郵便局に、勤めよりなさる人があるでしょうがち。はぁあれは家のほんな前の人ですよ、池尻さんち言います。もう今日は私はもう、朝から夫婦喧嘩してから、腹ん立って、もう腹ん立ってこたえじゃった。もう腹ん立ってぶうぶうやって、こうやって来よったら、丁度池尻さんが、郵便局に行きよんなさるとと出会うた。池尻さんが、別に知ったわけではない。
 けれども毎朝、出会い頭に、おはようございますというて挨拶をして通られる。そのにこやかな池尻さんの、それに接したら、もうちょいと中島さん、ほんに、あげん腹んたっとったつが一遍にですね、なにかこう清々しいものに会うたような、有り難い気持ちになったというて話された。又、中島さんがそれにもういっちょ輪かけてから言われた。はぁあの人はとても仏様んごたる人ですからち言うたち言うて、話した。
 私の妹のことなんです。私自身の心が何時も有り難い。私自身の心が何時もにこやかである。それこそ今朝、夫婦喧嘩してから、もう腹ん立って腹ん立ってこたえんという、その人をです、そのように大事にすることが出来たわけです。赤の普通でいうなら他人のその人に。そういうとりわけ大事にするという事はね、なでたりさすったりしてあげるという事だけではない。
 自分の心を大事にする事に務めさせて、信心でです、自分の心を大事にするおかげを頂かせて頂いたら。それはそのまま、人をも大事にすることに繋がるのです。そういう世界をね、私の心の中から広げて行きたい。よき人はその様な事を仰せられた。よき人はそのような事を教えられた。で私は今日言う、それを皆さんが信ずる以外にはない。他に別に子細がないという事なんです。
 ほんなこっちゃろうかてんなんてんち思わずにです。本当に自分をいよいよ大事にしなければいけない。そこから、人をも大事にする事の道が開けてくる。自分が気が付かんなりに、人を大事にしておることになる。それを神様が喜んで下さらんはずがない。どうぞ、そういう信心、そういう生き方をです、いよいよ自分のものにして行くことが信心だと、私は思うですね。
   どうぞ。